気ままに日記

2008年6月

 June .28(土)           ≪東京涛y産話 ≫           35
 
 上京2日目は毎回楽しみにしている劇団四季観劇。
私は長期公演中の≪ウイキッド≫を観る為、汐留にある海劇場へと足を運んだ。
行く前から気になってたキャストだが、開幕1周年ということで,主役が開幕当初の
お二人だったことがとてもラッキーだった。

 翌20日金曜日は、今回上京のメインである≪原博巳サキソフォンリサイタル≫。
会場は「浜離宮朝日ホール」で、すぐ目の前が築地だったが夕方故,閑散としてた。
コンサート第1部の現代曲では、良く解らない中にも何かおもしろい〜,,,との感触は
持て、演奏後には作曲者がステージに招かれ更なる感動をもらえたのであった。
その中で「秋のアノフェレス」という曲が印象的で、アノフェレスとは“羽まだら蚊”
のことで、羽音,吸血をサックスのあらゆるテクニックで描写し、季節外れに生まれ
てしまったアノフェレスが、戸惑いつつもその生涯を満喫し最後はパチン!の音で
一生を終える
様を音楽で表現していて、これはもう一度聴いてみたいと思った,,,
ほぼ満席の会場内では音大生の練習帰りでしょうか?楽器を携えた若い人達の
姿を多数目にし,何となく華やいだ雰囲気でヤングパワーを戴いてきたのであった。

 更なる翌日、私は親友達と久しぶりの再会。その友達は同郷の幼友達で,今回
は5人が都合をつけ集まってくれた。私達は品川のホテルでランチバイキングを
戴きながらお喋りをし、女性のみ10人近くの幼友達が遠く故郷を離れた東京の空
の下で顔を合わせるというのは、いつも不思議な感じがしているのである。
皆,結婚やらご主人の転勤やらで東京に出てからけっこう長年経ち、故郷への
望郷の念にかられているところに,1年後,私達の還暦会を故郷で。。。との話が持ち
上がった。私達は田舎育ち故,小中学校がず〜っと一緒で、汽車通学をした高校
時代もクラスが仲良かったのに不思議と今までのクラス会はかなり前に1〜2回
程度あっただけなのです。それぞれに会うと,クラス会があれば出るのに〜,,,と
言う人は多いけれど、肝心の音頭をとる人が中々いないのです。。。

それにしても還暦を迎えようとしている私達にとって、懐かしい友と会えるラストチャ
ンスと言うことで、故郷での還暦会の音頭取りを引きj受けて来てしまったのです。
故郷に手の届きにくい東京の幼友達が、時間とお金をかけてはるばると出かけて
来る,,,と言うのに、北海道に於いては故郷にいちばん遠い私であっても、ここで
立ち上がらなくては。。。 〜皆,自分達の,ふるさとをこよなく愛しているのです〜!


 June .27(金)        ≪機材故障欠航&乗換え上京 ≫       34
 
 東京からは戻ってはいたものの、留守中のやることが溜まっていたので、やっと
今日の日記更新となりました。
東京滞在中は前もっての雨予報にも関わらず、毎日出かけるのにギリギリの所を
すり抜けることが出来、持参した折りたたみ傘は一度も開かずに済んだのでした。
先ずは上京当日朝、出発予定の飛行機が機材故障の為点検,,,と結構待たされた
あげく欠航となり、即,別便に乗換えとなったものの座席数に限りがあるとのことで
どこまでが乗れるかどうか? 空港内は一気に不安と焦り状態になったのだった。
私的には定刻で東京に着いた場合、身内でのホテルランチを予約していたので、
それが取り敢えず困った,,,との思いにかられたのだが,こればかりはなるようにしか
ならない!とは思いつつも、私がランチに間に合わないとなると変更モードに切り
替えなくちゃならならないので,
私は長蛇の列に並びながら娘とメールでやり取りし
改めての有難みに携帯電話さんには頭の下がる思いであった。

その乗り換えアナウンスがあった瞬間人込みがドッと手続きの方に流れ,それぞれ
が航空券のキャンセルと一旦預けた荷物を受け取り、更に別便のチケットゲットに
至るまで、次の出発までは30分を切っていたので、空港内はごった返し。。。 

私は人込みをかき分けては行けない性格なもので(?)列順はけっこう後ろの方に
なってしまい、カウンターに辿り着いた時にはもう出発時刻に達していたのだった。
更に次の便は午後なのでランチは絶望,,,と、ほぼ諦めかけていたところに
「お座席は中ほどしか,,,」と言われ,ヤッター!乗れるんだ〜,ランチもOK〜と感激!

航空会社の落ち度とは言え、緊迫した30分弱の間に約100名以上の航空券変更
の対応をし、乗り換え便が僅か10分程の遅れで出発出来たのは、各航空会社が
一体となった連携プレーの成果の証でお見事でした。
別便は急に倍の乗客になったことで出発間際、色々な補充であたふたしたでしょう
にスチュワーデスさん達のいつもの落ち着いたにこやかさはさすが,,,でした。
それに搭乗口で、お詫びとして1,000円の食事代が渡され,その至れり尽くせりには
めったにない体験をさせてもらった。。。その封筒だって急場の作業と,かける人数分
の出費は結構なもの。その貴重なお昼代は別なことに有難く使わせて頂きました。
そんなこんなで思いもよらない上京スタートになったのです。 それでは又明日,,,


 June .17 (火)         ≪高崎山☆ 孤児猿タクマ ≫        33
 
 一昨日、とても感動的なTV番組を目にした。 私は動物が大好きなのでそれ系
の番組は良く観るのだが、今回は高崎山のお猿さんの話なのです。
大分県高崎山の猿は半野生で、食べ物をあさり畑などの被害を無くす為に、
国立公園高崎自然動物園内で一日数回、係りが小麦,芋等の餌を与えている。
そこに母猿とはぐれてしまった,生後3ヶ月の子猿≪タクマ≫が群れに入れずに寂し
そうにポツンと居たのである。
日本サルは群れをなして暮らす動物で、彼らは仲間意識が大変強く、果たして
この子はこの群れの中で生きて行けるのでしょうか?。。。
ある時タクマに小猿が寄りそって来て,その姿はとても微笑ましかったのも束の間、
夕方になりその子猿達は母猿と寄り添い山に帰ってしまいタクマは又一人ぽっち。
それでもタクマは、生きることは食べること,,,と、餌付けの時間にはがんばって群れ
の中に入り込んでは行くものの、小さな身体故思うように餌をゲットすることが出来
ない,,, 時にはタクマに寄り添ってくる猿もいて、愛情に飢えているタクマがとっさに
しがみつくと、相手は驚いて振り払って逃げてしまいタクマはいつも一人ぽっち。

ある朝、タクマは木から落ちたらしく木の枝をしっかりと握り締めたまま顔には血が
にじみ雨に打たれ瀕死の状態でぐったりしている所を見つけられた。
即保護されたものの回復するかどうか?,,,タクマはもう何日もお母さんのおっぱいを
飲んでません,,,哺乳瓶でミルクを与えられると、タクマは少しづつ飲み出し元気
を取り戻して行きました。だが,,,彼に人間の臭いがつくと益々群れには入れなく
なるので、早々に元の所に戻された。そこから又彼の孤独が始まったのである。
でもタクマは,振り払われても振り払われても前向きに生き抜くことを諦めなかった,,,

そんなある日、思いがけないことが起きた。タクマに感心を抱いた猿が近づいて来
たのである。そんな猿の気を更に惹かせる作戦で、係りがタクマに手を出す素振り
をすると、その猿は隙をぬってタクマをグィと自分の元に引き寄せたのである。
その猿は≪テンテン≫と言って,自分の子供を亡くしたばかりの母猿であった。。。
翌日エサ場に現れた群れの中に、テンテンに抱きしめられおっぱいを飲んでいる
タクマの姿があった。 その母子の抱き合う姿には人間では適わない温もりと愛情
を感じさせられ涙したのです。 小さなタクマの諦めない姿に,心うたれました。。。

私は、明日17日(水)〜22日(月)まで、娘婿,原さんの≪サキソフォンリサイタル≫
の為上京して来ます。先月に続き又最高の良いものを聴かせてもらって来ます〜。


 June .14 (土)          ≪ 地震&後藤新平氏 ≫          32
 
 ひと月前の四川大地震のショックからまだ立ち直れていないところに、
今朝起きた≪岩手・宮城内陸地震≫ 私の友達が盛岡から車で1時間程の所に
住んでいるので直ぐに連絡を取ったら「今回の地震は直下型で強い縦揺れを感じ
たものの幸いに家の中には被害はかった,,,」と、彼女と余震の中での生々しい
やりとりを交わしたのであった。

 そんな中、私は数日前に見たTV番組に気を惹かれていたのである。
それは大正12年9月1日に起きた≪関東大震災≫。地震とその後に起きた火災
により東京は壊滅的な被害を受けた。
この時、がれきの中から東京を再建し復興の道を切り開くべく、復興院総裁に任命
されたのが「後藤新平氏」。彼は元々は医者であったが,後に内務省の衛生技師と
なり,戦地から復員して来た兵隊達の伝染病の検疫等の職務に就いたのである。
やがて彼は行政に携わることになると、医者ならではの独特の発想にて次々と
国家プロジェクトを成功させて行ったのである。
一に人,二に人,三に人,,,彼の発想は人と人とのつながりがうまく機能すれば
人体の活動が健康に向かうのと同じように、世の中も発展して行くと考えた。
当時の東京は、人口の急増と生活衛生悪化に、その上関東大震災の発生で国土
の40%が焦土と化したのであった。そこで大都市東京の改造計画が始まり
後藤新平は50年後100年後の将来を見越した「帝都復興案」
を図面に起こし,
地震,火災に対応できる都市造りを提案していたのだが、その復興計画は様々な
弊害に遭いその案は幻となったのであるが、震災で焼けた木造校舎に変わる鉄筋
校舎として、東京千代田区の九段小学校が当時のままに残されているとのこと。

 後藤新平の言う自治の三訣,,,「人の世話にならぬよう(自助)」「人のお世話を
するよう(互助)」そして「報いを求めぬよう(自制)」 。 これは自らを治める自助,
助け合う互助,それに自制,,,と一人一人がこの精神を意識すれば、やがて社会は
良い方向に変わるということを、彼は念じていたのである。
それから彼は亡くなる直前に「金を残して死ぬ者は下だ」 「仕事を残して死ぬ者は
中だ」「人を残して死ぬ者は上だ」,,,との,本人の肉声が残されていたのだが、
昭和5年3月26日、6年以上の歳月をかけた関東大震災の復興作業完了を見ず
して彼は病の為、昭和4年(1929年)71歳で亡くなってしまった。 
だが,,,次の世代を担う人に語りかけた彼の言葉は、しっかりと脳裏に焼き付けられ
当時の街を救ったのは社会と心のつながりが生み出した力で、人と街を護ることに
全てを注ぎ社会の医者と言われた後藤新平の生き方は,私の心に残ったのだった。


 June .9 (月)           ≪ 新聞♪切り抜き ≫           31
 
 私は毎朝新聞に目を通す際、気を惹かれる記事は取り敢えず切り取ってある。
今手元にある中で、私的に貴重な切抜きの一枚として≪五輪とニッポン,挑戦者の
軌跡≫の日本女子初の五輪選手、人見絹枝さんの写真入り記事。
それは1928年のアムステルダム五輪女子800mで、世界新2位を取った時の
ゴール寸前写真である。当時「女の子が人前で太ももを出すなんて」,,,と言われて
た時代、今から80年前のそのマラソンユニフォーム姿は時代を感じさせてくれる
そのものである。彼女はただ単に五輪代表として世に出て有名になっただけでは
なく、人間的に素晴らしく,あの時代には珍しい自立した女性であったことが、記事
を通して伺えたのである。。。

 次に≪ヒトラーの作?ディズニー漫画≫だが、これはノルウエーの戦争博物館で
発見されたものらしいが、描かれていたのは1937年のディズニー映画「白雪姫」
の登場人物やピノキオ。その漫画にはヒトラーの他の手書きの筆跡と同じ「A・H」
のイニシャルが記されていて、それを発見した当館長がこれらの漫画をドイツの
競売で落札したとのことである。
ヒトラーさんのイメージとは程遠い、可愛らしい漫画が4点,紙上に載せられていた。

 そして、もう1枚の切り抜きは≪勉強中 8歳のヘレン・ケラー≫
それは米ニューイングランド歴史家系学協会が発表した一枚で、屋外で椅子に
座り、人形を抱いたヘレン・ケラーの側にサリバン先生が寄り添い、指で手の平に
手話の文字を書いて教えているところ,,,と見られる写真である。
ケラーが最初に覚えた手話の単語が「DOLL(人形)」と言われ、ケラーの教育上
人形が重要な役目を果たしたとされている。
同協会発表によると「それはモノクロだが保存状態が良く,二人の表情等もはっきり
と解り、ヘレン・ケラーの生涯を振り返る上で重要な写真の一つ」とのこと。
視力,聴力,話すことも出来ない三重苦の障害を、サリバン先生の力添えにより克服
したことで有名なヘレン・ケラーの物語を、数年前に地元演劇団により舞台で鑑賞
した事があったのだが、水の言葉を覚えるシーンでは実際にポンプから水が出て
二人はびしょ濡れになり、食事のシーンなどのあの格闘は真に迫るものがあり、
互いが分かち合えるラストシーンでは、感動で一緒に涙が溢れたのであった。
そんなヘレン・ケラーとサリバン先生本人達の写真が手元にあって眺められるのは
例え新聞の切り抜きであっても、私にとってはささやかな満足である。。。


 June .2 (月)         ≪ おもいで懐塔Rンサート ≫          30
 
 今日午後2時から、グループホーム“おもいで懐”にてフレンドリ〜ミニコンサート
をして来ました。このグループホームさんとは、うちのギターの生徒とのつながりで
ご縁があり、リフレ塔Mターアンサンブルの皆さんで訪問したのです。

 こちらの“おもいで懐”さんの建物は、2年前に開所したばかりで結構街中に所在
していて、玄関に入るとまだ初々しい木の香りが漂っている大きなお家でした。
私達は訪問が決まってから、一緒に歌える曲を選びコード等を練習して来ました。
私は以前から老人施設を慰問して来てるのだが、おじいちゃんおばあちゃん達に
とっては一緒に歌える参加型がいちばん喜ばれるのです。
とにかく歌うことで声を出し、声を出すことで呼吸をし酸素を身体に取り入れるのが
健康の源。今ではどちらの施設でも歌うことをしているようだが,ギターの伴奏で歌
えるチャンスはそうないのでは?,,,と思っているのである。

 それに今日は、身近でギターをやっている演歌ギター専門の方も参加してくれて
昔懐かしい古賀メロディを数曲弾いてくれたのである。
中にはそれに合わせて両手で指揮をし出すおばあちゃんが居て、その4拍子が
しっかりとリズムに合っていて、それはそれはとても楽し気な様子であった。
ところが4拍子以外の曲になると、何故か指揮はこんがらがってしまうようで(?)
別に何拍子で振っても構わないのだが、そのおばあちゃんからは、3拍子が思うよ
に指揮を振れないはがゆさが伝わってきたことが、この方は音楽を解っているので
は?と思ったのである。私は,このおばあちゃんの正確な4拍子のリズムが、いつ頃
どのようにして身についたのかに、とても興味を引かれたのであった。

 今日参加のリフレグループさんは、昨年公民館講座で出会ってから丁度一年。
そのメンバーさんが、自分のギターでお年寄り達を和ませてあげることが出来、
充実の初体験を感じてもらえたのでは?と思えた今日の初慰問であった。
次回訪問の機会には,おばあちゃんの為に4拍子の曲をもっと用意しなくては(?)。。。

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